途上国支援における「水質基準」の柔軟な運用とは? タンザニア深井戸開発プロジェクトに見る、住民本位の意思決定

1. 地質的難所における深井戸開発の挑戦

タンザニアのタボラ州。東アフリカ内陸部に位置するこの地域は、広範囲にわたって岩盤が地表近くまで迫る、地下水開発にとって極めて厳しい環境です。

多くのドナーがタンザニア国政府から本地域での水道開発プロジェクトを打診されましたが、条件があまりにも過酷であることを理由に、次々と実施を断念していきました。それを引き受けたのが、長年タンザニアで実績を積んできたJICAの協力のもと、弊社(前社)でした。プロジェクトの内容は、配管型給水施設4か所と、点給水施設としての深井戸110本超の掘削という大規模なものです。

プロジェクトが動き出すと、懸念は現実のものとなりました。岩盤地域における地下水探査は難航を極め、序盤の成功率は低調なままでした。

しかし、コンサルタント側の探査担当と掘削業者の双方が粘り強く調査と技術検討を続けた結果、成功率は50%を超える水準まで引き上げられました。岩盤という物理的な制約に対して、データと経験の積み重ねで少しずつ正解に近づいていく。この過程は、地下水開発が単なる掘削作業ではなく、知識と判断の連続であることを改めて教えてくれるものでした。

水量という壁は、こうして越えられていきました。しかし次に、別の壁が立ちはだかります。


2. WHOガイドライン値の「絶対視」という陥穽

水量の確保と並んで、井戸の合否を左右するもう一つの条件が水質です。このプロジェクトでは、前任担当者が設定したWHO水質ガイドライン値をそのまま踏襲する形で進めていました。問題となったのが、マンガンの基準値です。WHOガイドラインにおけるマンガンの基準値は0.05mg/L。これを超えた井戸は「不合格」として扱われていました。

掘削が進むにつれ、マンガン濃度がこの基準値をわずかに超える井戸が相次いで出てきました。当時の私は、「基準値を超えてしまったのだから、しかたがない」と判断していました。基準は基準。それを超えた井戸は不合格。そう思い込んでいたのです。

そんな私に、当時の同僚が一つの問いを投げかけました。

「その基準で不合格になった井戸の地域の住民が、これまで通りに何を飲み続けるか、考えたことがあるか」

その言葉は、思考の枠組みそのものを揺さぶるものでした。不合格になった井戸の代わりに、住民が頼る水源は何か。答えは明白でした。その地域で窪地に染み出る泥水です。見た目ではっきりと汚れているし、家畜も集まる水飲み場の水を大事そうに容器に汲んでは持ち帰る住民の姿が思い浮かびました。

「マンガンが基準をわずかに超えた井戸水」と「細菌汚染されているだろう泥水」。どちらが健康リスクとして深刻か。その比較を、私はまったくしていませんでした。住民の「安全」を守るために設けた基準が、結果として住民をより大きなリスクにさらしていた。少し、この業務に慣れてきて、杓子定規なプロジェクト進行が当たり前になりつつあった私にとって、これは大きな気づきでした。


3. 公衆衛生学的視点からの基準再考プロセス

同僚の指摘を受け、チーム内で改めてマンガンの安全性についての検討を始めました。調べていくと、重要な事実が浮かび上がってきました。

WHOのマンガン基準値は、かつて0.5mg/Lでした。現行の0.05mg/Lへと引き下げられたのは比較的近年のことです。そして、タンザニア国自体の水質基準は、旧WHOガイドライン値である0.5mg/Lを現在も継続して採用していました。

つまり、このプロジェクトが採用していた0.05mg/Lという基準は、タンザニア国内の法的基準よりも10倍厳しい設定だったことになります。

次に行ったのがリスク比較の整理です。マンガンが0.05〜0.5mg/Lの範囲でわずかに基準を超えた場合の健康リスクと、細菌に汚染された地表水を継続的に摂取し続けた場合の健康リスクを、公衆衛生学的な観点から比較検討しました。結論は明確でした。後者の方が、圧倒的に深刻です。

細菌性の水系感染症は、特に免疫力の弱い子どもや高齢者にとって命に直結するリスクです。一方、マンガンの微量超過による健康影響は、長期的な摂取量に依存するものであり、旧基準の0.5mg/L以下であれば急性的な健康被害が生じるリスクは低いと判断されました。


4. ドナー(JICA)およびカウンターパート(タンザニア国)への交渉と合意形成

検討結果をもとに、チームはJICAおよびタンザニア国に対して、マンガンの基準値をプロジェクト内で0.05mg/Lから0.5mg/Lへ緩和する提案を行いました。

提案の根拠として示したのは、以下の三点です。WHOガイドライン値の歴史的変遷とその背景。タンザニア国内の法的水質基準との整合性。そして、住民が現実に直面している代替水源のリスクとの比較。

この提案はJICAおよびタンザニア国の双方から承認され、プロジェクトにおけるマンガンの基準値は0.5mg/Lに改定されました。

この判断が生んだ変化は、数字で明確に表れました。それまで「不合格」として処理されていた20本程度の井戸が、「成功井」として認定されることになったのです。その結果、当初は安全な水を得られないままでいた地域の住民、約1万人規模に対して、細菌汚染のリスクがない安全な水を届けることができました。

書類の上では「基準超過」でも、現地の住民にとっては「命をつなぐ水」になる。数字と現実の間にある、その距離を埋めることが、コンサルタントの仕事の本質の一つだということを、このプロジェクトは教えてくれました。


5. 結び:住民の幸せを設計の「真ん中」に置く

このプロジェクトで私が学んだことは、「基準は手段であり、目的ではない」ということです。

マニュアルや基準値は、より安全な水を届けるために存在するものです。しかしそれを目的と取り違えた瞬間、基準の遵守が住民の利益を損なう逆説が起きます。「ルール通りに進める」ことへの慣れが、「誰のためのプロジェクトか」という根本的な問いを忘れさせてしまう。当時の私は、まさにそのわなに落ちかけていました。

真に優先すべき価値は何か。その問いを手放さないことが、現場での判断を正しい方向に導きます。

この教訓は、途上国支援に限った話ではありません。人手不足、財政的制約、老朽化するインフラ。さまざまな困難に直面するこれからの日本の水道においても、「基準をクリアすること」が目的化するリスクは常にあります。誰のために水を届けるのか。その答えを設計の真ん中に置き続けること。それが、どんな環境においても変わらない、水道に関わる者の根本的な姿勢だと、タンザニアの現場は教えてくれました。

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