1. 明治の技師が驚愕した日本の「川」の実態
「これは川ではない、滝である」
明治政府が招いたオランダ人土木技師ヨハネス・デ・レイケが、日本の河川を初めて視察したときに発したとされる言葉です。ヨーロッパの緩やかな平野を流れる川しか知らなかった彼の目に、日本の河川は常識外のものとして映りました。
日本列島は、国土の約4分の3を山地が占める急峻な地形を持ちます。山の高さに対して海岸線までの距離が短く、降った雨は一気に標高差を駆け下ります。ヨーロッパの大河が数千キロメートルをかけてゆっくり海へ向かうのに対し、日本の主要河川の多くは100〜200キロメートル足らずで海に注ぎます。
この地形的な宿命は、水管理を根本的に難しくします。雨が降れば洪水の危機が生まれ、雨が止めば渇水の不安が訪れる。その振れ幅が、ヨーロッパとは比較にならないほど大きい。デ・レイケの驚きは、日本の水管理の本質的な困難さを、一言で言い表していました。
2. 戦後の空白と、森林率70%への復活劇
この「滝のような川」を制御する上で、最も根本的な役割を果たしているのがダムでも堤防でもなく、山の森林です。
第二次世界大戦中から戦後にかけて、日本の山林は深刻な乱伐にさらされました。軍需資材の調達、戦後復興のための木材需要——山から木が消えていきました。森林を失った山は、保水力を失います。1947年のカスリーン台風、1959年の伊勢湾台風をはじめ、戦後日本を繰り返し襲った大規模水害の背景には、森林の劣化という要因が存在していました。
その反省から、先人たちは大規模な植林事業を進めました。スギ・ヒノキを中心とした人工林の造成が全国各地で行われ、数十年をかけて山は緑を取り戻していきました。現在、日本の国土の約67%が森林で覆われています。この数字は、先人たちが汗を流して作り上げた遺産です。
森林が「緑のダム」と呼ばれる理由は、その保水機能にあります。雨水は森林の土壌に吸収され、地中をゆっくりと移動しながら徐々に河川へ流れ出します。この「時間差」が、急激な増水を緩和し、渇水時にも水を供給し続けることを可能にします。コンクリートのダムは水を「溜めて放流する」のに対し、森林は水を「吸って少しずつ滲み出す」。このスポンジ機能こそが、日本の安定した水供給の根幹を支えています。
3. 現場の視点:記録的渇水でも「水が途切れない」理由
今年の年末年始、全国的な渇水同様に、担当している小規模水道が記録的な少雨に見舞われました。
取水量が日に日に低下し、貯留水がどこまで持つかを毎日ひやひやしながら見守る日々が続きました。「もうそろそろ限界か」と冷や汗をかきながら現地の管理者に確認するたびに、山の斜面からは細くなりながらも水が滲み出し続けていることを伝えてくれました。
結果として、この冬を断水なく乗り越えることができました。あの水がどこから来ていたかといえば、集落の上方に広がる森林が長い時間をかけて蓄えていた水です。降雨量がゼロに近い日々が続く中でも、土壌が含んだ水分が地中を伝い、水源へと少しずつ届き続けました。
この経験は、森林の保水力が数字や理論ではなく、現場の命綱として機能していることを、技術者として体感した瞬間でした。どれほど優れた浄水設備を整えても、その上流の山が保水力を持っていなければ、浄水する水そのものが存在しない。取水設備の設計をどれだけ工夫しても、源泉が枯れれば意味がない。
水道インフラの議論が施設の更新や浄水技術に集中しがちな中で、山の森林という「最上流のインフラ」への目配りが欠かせないと、私はさらに強く意識するようになりました。
4. 「格差」が生まれる水源林の保護体制
東京都水道局は、奥多摩や丹沢などに広大な水源林を保有・管理しています。専門の職員が森林の状態を継続的に監視し、木の間引きや下草刈り、植え替えを計画的に実施しています。水源林の維持に多額の予算が投じられており、水道水質の安定した確保と、集水域における洪水・渇水リスクの管理が一体的に行われています。
しかし、全国の小規模水道が同レベルの管理体制を持てているかというと、現実はまったく異なります。
水を供給している水源の上流域が「水源林」として法的に指定・保護されていないケースは少なくありません。「ただの山」として所有者に放置されているか、あるいは所有者が誰であるかさえ把握されていない土地が、集落の命を支える水源の上流に広がっていることがあります。
その山が荒れれば、保水力が低下します。豪雨時の土砂流出が増え、渇水時の水量が減少します。しかし小規模水道の管理者には、上流の山の状態を管理する権限も予算も持ち合わせていないことが多い。この格差が、水源の安全保障における最も見えにくいリスクの一つです。
5. 新たな脅威:土地買収と土砂災害、そして海の豊かさ
近年、外国資本による山林・水源地の買収が各地で報告されています。取水源に近い山林が外国資本に購入され、地元の自治体や水道管理者が情報を把握できないまま、上流の土地利用が変化していくリスクが生じています。水源地保護に関する法整備は進みつつありますが、小規模水道レベルでの対応には限界があります。
また、森林の消失がもたらす影響は、水道への影響にとどまりません。
裸地化した斜面は豪雨時に大量の土砂を流出させ、河川の氾濫リスクを高めます。流出した土砂は河床を埋め、取水設備のトラブルを頻発させます。さらに、森林から川を通じて海に届くはずの有機物・栄養塩が失われると、沿岸の海洋生態系に影響が及びます。磯焼け(海藻が消えること)と森林の減少の関連は研究者の間で指摘されており、山の森林は河川を通じて海の豊かさとも繋がっています。
水道の問題を水道管の中だけで考えることの限界が、ここにあります。
6. 未来への投資としての森林維持
前回の記事で、水道料金の高騰を抑えるためには浄水プロセスのコスト構造を見直すことが必要だと述べました。しかし、どれだけ浄水コストを下げても、供給する水そのものが確保できなければ意味がありません。
施設の更新と並んで、水源林の保護と管理は、水道インフラへの「未来への投資」として位置づける必要があります。先人たちが戦後の荒廃した山に木を植え続けたように、私たちが今この時代にすべきことの一つは、その森林を守り続けることです。
水道に関わる技術者として、浄水設備の設計と並んで、水源域の現状把握と保全の重要性を伝え続けることが責任だと考えています。取水設備の改善も、浄水プロセスの最適化も、その上流に健全な森林があってこそ意味を持ちます。
デ・レイケが驚いた「滝のような川」を、今も穏やかに緩衝しているのは、先人が植えた森です。その森を次の世代に引き渡すことが、水道技術者の仕事の、最も上流にある使命だと思っています。
