1. 日本はダムをたくさん作ってきた
日本の山間部を車で走ると、かなりの頻度でダムを目にします。緑に囲まれた谷に静かな湖が広がり、コンクリートの堤体が山の斜面に挟まれ、そこから下流へ川が流れていく。私たちはその光景を、日本の当たり前の風景として見てきました。
国土交通省のデータによれば、日本には貯水容量が100万m³以上の大規模なダムだけで2,700以上あり、世界でも有数のダム大国です。では、なぜ日本はこれほど多くのダムを作ってきたのでしょうか。
2. 高度成長期、日本には「水が足りなかった」
その答えは、戦後から高度成長期にかけての日本の状況にあります。人口が急増し、都市化が進み、工業化によって大量の工業用水が必要になり、農業の生産性向上には安定した農業用水が欠かせませんでした。生活水準の向上とともに、一人あたりの水の使用量も増えていきました。水需要は急速に膨らんでいったのです。
ところが日本の河川は、水を安定して確保するには難しい特徴を持っています。河川が短く、傾斜が急で、雨が梅雨・台風の時期に集中します。大量の雨が短期間に降り、その水は急な勾配の河川を勢いよく下って海へ流れ去ります。雨が多い季節には水が余り、降水が少なくなると水が足りなくなる——この問題は、日本の気候と地形が生み出す構造的な課題でした。
前回の記事で「水の時間差」という概念を取り上げましたが、日本のダム建設はまさにこの問題に対する答えでした。
3. ダムとは何なのか?――「水を時間移動させる装置」
ダムというと、「水を貯める巨大な壁」というイメージがあります。しかし水資源の視点から見ると、もう少し本質的な定義ができます。ダムとは「水を時間的に移動させる装置」です。
6月の梅雨に大量に降った雨をダムに蓄え、8月の農業の繁忙期や都市への安定供給に使う。台風で急増した河川の流量を一時的にダムに取り込み、下流の洪水を防ぎながら、後から少しずつ放流する。「今日降った雨を、明日の水にする」——これがダムの本質的な役割です。
この視点で見ると、ダムは単なる「水の容器」ではありません。時間軸の上で水の流れをコントロールする装置であり、水循環に人間が介入する最も大規模な方法の一つです。
4. ダムには「利水」と「治水」の二つの顔がある
ダムの役割を話すとき、もう一つ重要な面があります。「利水」と「治水」という、一見正反対の機能を一つの施設が担うということです。
利水とは、水が足りないときのために貯めておくことです。農業・工業・生活に必要な水を確保するため、雨が多い時期の水を蓄えておきます。治水とは、水が多すぎるときに一時的に受け止めることです。大雨のときにダムが洪水の一部を取り込み、下流への流量を抑えることで浸水被害を軽減します。
同じ一つのダムが、「水が足りないときには貯める」「水が多すぎるときには受け止める」という二つの機能を果たします。そのため常にダムを「満杯にしておく」のではなく、洪水に備えてある程度の「空き容量」を確保しながら運用することが求められます。
この利水と治水のバランスをとることが、実はダム運用の核心的な難しさです。
5. 高度成長期の日本にとって、ダムは合理的な答えだった
戦後の日本にとって、ダムを建設することは非常に合理的な選択でした。水需要が急増していた、洪水被害を抑える必要があった、水力発電で電力を確保する必要があった、都市と工業地帯への安定した水の供給が急務だった——これらの条件が重なる中で、ダムは最も効果的な答えの一つでした。
ダムが建設されたことで、不安定だった日本の水供給は劇的に改善しました。農業生産量が増え、工業が発展し、都市が成長し、日本の高度成長を水の面から支えました。今の私たちが享受している安定した水道の多くは、この時代に整備されたダムと水インフラの上に成り立っています。その事実を正当に評価することが、これからを考えるうえでの出発点になります。
6. そして日本の水インフラは、ダムだけではない
高度成長期に日本が整備したのは、ダムだけではありません。堤防・河川改修・放水路・水路・上水道・下水道・農業用水路など、水を制御するためのあらゆるインフラが整備されました。
「水を貯める」ダムに加えて、「水を流す」河川インフラ、「水を届ける」上水道、「水を処理する」下水道が組み合わさることで、日本は「水を管理する社会」を作り上げました。これは世界的に見ても非常に高い水準の水インフラであり、日本の社会基盤を支える重要な資産です。
7. しかし、今は条件が変わった
かつて日本が直面していた問題は「水が足りない」でした。しかし今日、条件は大きく変わっています。
人口は減少に転じ、水需要も縮小しています。一方で、高度成長期に整備された膨大な水インフラは老朽化が進み、更新の時期を迎えています。それを支える技術者が不足し、自治体の財政は厳しさを増しています。
さらに気候変動という新たな条件が加わります。豪雨の極端化、無降水期間の長期化、積雪量の減少——前回・前々回の記事で見てきた変化が、日本の水インフラにも直接的な影響を与えています。
つまりこれからの水問題は「水が足りないから施設を増やす」という単純な問題だけではなくなっています。
8. 「では、ダムをもっと作ればいいのか?」
ここでタイトルの問いに向き合います。
ダムが不要になるわけではありません。既存ダムの適切な維持・更新・老朽化対策・堆砂問題への対応・ダム間の連携強化・運用の高度化、そして必要な場所での新規整備——これらは引き続き重要です。
しかし「水問題の解決策=ダムの容量を増やすこと」と考えるだけでは、これからの問題に対応しきれません。なぜなら、これからの問題の核心は「どこに降るか」「いつ降るか」「雪か雨か」「どの程度の洪水になるか」「いつ渇水になるか」という、水の「量」だけでなく「時間と場所」の問題だからです。
9. ダムの「空き容量」と「水不足」という矛盾
ダム運用の難しさを象徴するのが、利水と治水のトレードオフです。
渇水を心配する立場からは、できるだけ水を貯めておきたい。しかし洪水を防ぐためには、大雨に備えてダムに空き容量を確保しておかなければなりません。豪雨が来る前にダムが満杯に近ければ、水を受け止める余力がなくなります。
気候変動によって降雨の予測がますます難しくなるほど、このジレンマは重要さを増します。「10日後に豪雨が来るのか、それとも長期間雨が降らないのか」——その予測の精度によって、ダムの最適な水位が変わります。
ここで浮かび上がるのが、固定的な運用から気象予測を活用した柔軟な運用への転換という方向性です。
10. これからのダムは「大きさ」だけでなく「運用」が重要
例えば、10日先の降雨予測で大規模な豪雨が見込まれるとき、あらかじめダムの水位を下げて洪水容量を確保しておく。逆に、長期間の少雨が予測される場合には水を温存する。このような「予測に基づく運用」が、ダムの価値をより高めます。
「ダムという箱の大きさ」から「気象情報と連動して動く水資源システム」へ——これが、これからのダム運用が向かうべき方向の一つです。AIや気象予測技術の進歩が、こうした運用を現実のものにしつつあります。
11. ダム以外には何がある?
ダムが水を貯める最も代表的な方法である一方で、水を保持する仕組みはそれだけではありません。
森林と土壌は、雨が降ったときにその水を吸収し、ゆっくりと地下水や河川へ流すという機能を持ちます。湿地は、洪水時に一時的に水を受け止めるスポンジのような役割を果たします。水田は田植えの時期に大量の水を保持し、徐々に浸透・蒸散させます。遊水地は河川があふれそうなとき水を引き込む逃げ場として機能します。都市の地下貯留施設は、大雨の際の雨水を一時的に取り込みます。そして地下水は、目には見えないながらも巨大な水のストックとして機能しています。
東京の首都圏外郭放水路のような地下調節池は、都市における「地下のダム」の一例です(これについては以前の記事で詳しく取り上げました)。
12. 「分散型の貯水」という考え方
一カ所に大量の水を貯める巨大ダムという発想に対して、流域全体で少しずつ水を保持する「分散型の貯水」という考え方があります。
森林が山で水を保ち、水田が平地で水を受け止め、ため池が各地に点在し、湿地が谷筋に残り、地下水が帯水層に蓄えられる。一つひとつの機能は小さくても、流域全体で合計すれば大きな貯水容量になります。さらにこの分散型の仕組みは、一カ所が損傷しても全体には影響が及びにくいというレジリエンスの強みも持ちます。
13. 地下水は「見えないダム」
地下の帯水層に蓄えられた地下水は、「見えないダム」と考えることができます。地上のダムは目で見えますが、地下水は見えません。しかし、地層の中に大量の水を蓄え、雨が降らない時期にも継続して水を供給するという意味では、ダムと同じ役割を果たしています。
ただし、地質・地下水の流動・水質・地下水位の制約があり、誰でもどこでも自由に使えるものではありません。過剰な揚水は地下水位の低下や地盤沈下を招きます。地下水を守ることは、目には見えない水資源を守ることであり、これからの水資源政策の重要な柱の一つになります。
14. 「雨を全部、川に流す」必要があるのか?
ここで治水の発想を少し問い直してみましょう。
従来の治水の基本的な考え方は、「降った雨を速やかに川に集めて、洪水にならないよう安全に海まで流す」というものでした。この発想から、河川の拡幅・護岸の強化・放水路の整備が進められてきました。
しかしもう一つの発想として、「可能な場所では、雨が降った場所でその水の一部を保持する」という考え方があります。すべての水を速く流すのではなく、安全な範囲で水の流れを遅らせ、地中に浸透させ、後から少しずつ使えるようにする——この発想が、森林管理・湿地の保全・水田の維持・遊水地の確保・地下水涵養につながります。
「早く流す」だけでなく、「安全な範囲で遅くする」という治水の発想の転換は、水資源の確保とも表裏一体の関係にあります。
15. 「グリーン+グレー」という考え方
世界の水インフラの議論で近年注目されているのが、「グレーインフラ」と「グリーンインフラ」を組み合わせるという考え方です。
グレーインフラとは、ダム・堤防・放水路・地下調節池など、コンクリートや鉄鋼を使った従来型の人工構造物です。グリーンインフラとは、森林・湿地・氾濫原・水田・自然河川など、自然の機能を活用した仕組みです。
どちらか一方が正解ではありません。グレーインフラは確実に機能しますが、建設・維持にコストがかかり、環境への影響もあります。グリーンインフラは多くの生態系サービスを提供しますが、管理が必要で機能の定量評価が難しい面があります。この両者を組み合わせることで、より柔軟で持続可能な水管理が実現できると考えられています。
16. 「ダムを作る/作らない」という二択をやめる
今回の記事を通じて伝えたいのは、この一点です。
ダムは必要です。しかし、ダムだけでは足りません。逆に、「自然に任せればいい」でもありません。これからの水の問題に対応するには、ダム+地下水+森林+湿地+水田+雨水貯留+都市インフラを組み合わせた多層的なアプローチが必要です。
「ダムを作るか作らないか」という二項対立の議論から離れ、「どこで、どのくらいの期間、どの方法で水を保持するか」という問いへ。これが、21世紀の水の課題への正しい向き合い方ではないでしょうか。
17. 水を「どこで」ではなく「いつ、どこで」貯めるか
貯水を考えるとき、場所だけでなく「時間スケール」という軸が重要です。
数時間の一時貯留には遊水地や都市の地下調節池が向いています。数日から数週間の貯留にはダムが最適です。数か月から数年にわたる貯留にはダムや湖が機能します。さらに長い時間スケール——数十年以上——では、地下水や森林・土壌が水を保持します。
山の森林・谷のダム・平地の水田と遊水地・都市の地下・地下の帯水層——これらを時間スケールに応じて組み合わせることで、流域全体が一つの多層的な貯水システムになります。これは前回の記事で取り上げた「水の時間差」という概念の、実際のインフラへの応用です。
18. 日本は「水不足国」ではなく「水を管理する国」へ
日本には、雨も雪もあります。水そのものが絶対的に不足している国ではありません。しかしいつでも好きなだけ使えるわけではない。必要なときに、必要な場所に、必要な量の水が届かないという問題が起きる。
これからの日本に必要なのは、水そのものを増やすことよりも、水の変動を吸収する能力を高めることです。豪雨が来ても洪水にならず、渇水が続いても水が枯れない——そのためのシステムを、人口減少の中で、できるだけ少ない人員・エネルギー・コストで維持していく。
その方向で考えたとき、低エネルギーで動き続けるシンプルな浄水システムの価値が見えてきます。この点については次回以降でさらに掘り下げていきます。
19. 「貯める」だけではなく「使う側」も変わる
どれだけ水を上手に管理しても、世界が必要とする水の量が増え続けるなら、供給側だけで問題を解決することはできません。
では、これから世界はどれくらいの水を必要とするのでしょうか。増え続ける人口、そのための食料、農業・工業・都市化の進展、そして近年急速に拡大するAIとデータセンターという新しい水需要——次回は、水の需要側を深く見ていきます。
20. まとめ——ダムから「水システム」へ
私たちは「ダムを作るか、作らないか」という議論をしがちです。しかし本当に考えるべきなのは、そこではないのかもしれません。
雨が降ったとき、どこで水を受け止めるのか。その水を、どれくらいの期間保存するのか。そして渇水になったとき、どこから取り出すのか。
ダムは、その答えの一つです。しかし、ダムだけが答えではありません。森林も、土壌も、水田も、湿地も、地下水も、都市の地下も、すべて水を「時間的に保存する場所」と考えることができます。これから必要なのは、巨大な一つの貯水池ではなく、流域全体を一つの貯水システムとして考えることなのではないでしょうか。
ところで、こうして水を貯める仕組みをいくら整えても、世界では水を使う人そのものが増えています。では、これから世界はいったいどれくらいの水を必要とするのでしょうか。次回はその問いから考えていきます。
