能登半島地震で再評価された「井戸水」という命綱
2024年1月の能登半島地震は、水道インフラの脆弱性を改めて全国に示しました。広域・長期にわたる断水が続く中、自衛隊による浄化活動や湧き水の利用と並んで、かつて各家庭で使われていた浅井戸が多くの住民の生活用水を支えたことが注目されました。
「蛇口の水道が止まっても、昔ながらの井戸が残っていれば助かる」——この事実は、都市部の住民にも「防災井戸」への関心を呼び起こしました。特に東京などの大都市圏では、「自治体が新たに防災井戸を掘るべきではないか」「防災マップに載っている井戸を活用すべきだ」という声が高まっています。
しかし現実は、そう単純ではありません。
大都市圏で井戸の新規開発が進まない「地下の壁」
結論から言えば、東京などの大都市圏で新たな防災井戸の掘削は、ほとんど進んでいません。
理由は地下空間の複雑さにあります。東京の地下には、複数の路線が交差する地下鉄網、電気・通信・ガス・水道・下水道を束ねた共同溝、高層ビルやマンションの大規模な基礎杭群——これらが複雑に入り組んでいます。掘削のルートを確保すること自体が極めて困難で、仮に空間があっても地下水脈が都市開発によって変質しているケースも多い。
掘削コストも高く、地下構造物への影響調査・近接施工の承認手続きも膨大です。地上から見えない地下の「満員状態」が、大都市における防災井戸の新規開発を阻んでいます。
では、既存の防災井戸はどうか。防災マップに掲載されている井戸を活用すればいいのではないか——そう思う方も多いでしょう。しかしここで、非常に不都合な現実をお伝えしなければなりません。
衝撃のフィールドワーク:防災マップの「生存率20%」
弊社代表が起業直後、自身の居住区の防災マップを手に、近所に掲載されていた防災井戸10本を、1本ずつ実際に歩いて確認したことがあります。
結果は衝撃的でした。
10本のうち、物理的に「存在を確認できた」のはわずか2本。残りの8本は、現地を訪ねても見当たりませんでした。地価高騰や世代交代による建て替えの際に、井戸は「ついでに撤去」または「埋め殺し(廃井戸)」にされていたのです。登録当時は確かに存在していた井戸が、防災マップの更新が追いつかないまま、地図上だけに残り続けていました。
では、辛うじて存在した2本はどうだったか。
2本とも手押しポンプ(ガチャポン型)でした。しかし1本は、ハンドルや弁体が失われており、物理的に使用不能な状態。もう1本はパーツこそ揃っていましたが、長期間使われないことで気密性が失われており、ポンプを押しても空気が漏れて水が上がってこない状態でした。
結論として、10本中、実際に機能すると確認できたものはゼロでした。
この背景には技術的な盲点があります。日本で一般的な手押しポンプ(ガチャポン型)は、弁体が地上部分に設けられている構造のものが多い。長期間使用されないと、ゴムや革製の弁体が乾燥・硬化してシール性を失い、水を吸い上げる機能が失われます。定期的にグリスを塗布したり、水を呼び水として注入して弁を湿潤に保つといったメンテナンスが必要ですが、それが行われていない井戸がほとんどです。
防災マップの「井戸あり」マークは、有事の安心の根拠にはなり得ません。少なくとも現状では。
東京に残された「本当の隠れ井戸」――銭湯とホテルのポテンシャル
地図上に残骸のように載っている手押しポンプに頼る代わりに、今すぐ活用できる「本当に機能する地下水インフラ」があります。銭湯と、大浴場を持つホテルです。
銭湯や温浴施設を持つホテルは、日々大量の水を必要とします。公共水道だけで賄うと、水道代が莫大になる。そのため、多くの施設が独自に「深井戸」を掘削し、現役で日常的に地下水を汲み上げています。この井戸は手押しポンプではなく、大型の電動ポンプで稼働しており、ポンプ自体も定期的にメンテナンスされています。能登の浅井戸とは根本的に設備のレベルが異なります。
この施設が大規模災害時にどれほどの力を持つか、シナリオで考えてみましょう。
電力(自家発電設備を含む)さえ確保できれば、強力なポンプで大量の地下水を継続的に汲み上げられます。ボイラーが生きていれば、そのまま避難者向けの入浴施設として機能します。ボイラーが損傷していても、敷地を臨時の「生活用水給水所」として開放すれば、周辺住民の洗濯用水・トイレ用水・清掃用水を一手に賄える巨大な拠点になります。
東京都内には銭湯が数百軒、大浴場付きのホテルもそれなりにあります。これらの施設が持つ地下水インフラの総量は、老朽化した手押しポンプの集合とは比較にならない規模です。しかもそれは、今この瞬間も現役で稼働している、生きたインフラです。
提言:東京都が今すぐ進めるべき「民間事業者との災害時協定」
新たに防災井戸を掘削するには、大都市圏では数百万円から数千万円の費用がかかり、地下構造物との干渉調査や近接施工承認の手続きには数年を要します。そのうえ、掘っても地下水脈に当たる保証はない。
一方、銭湯やホテルとの「災害時における井戸水・施設の提供に関する協定」を結ぶことは、コスト的にも時間的にも圧倒的に現実的です。
協定の内容として整備すべき要素は、いくつかあります。どのような災害が発生したときに協定が発動するか。補助金や費用負担の取り決めをどうするか。燃料(ガス・灯油)の供給支援をどう行うか。従業員が確保できない場合の代替手段をどうするか。施設の開放方法と周辺住民への告知をどう行うか。これらを平時に決めておかなければ、有事に動けません。
重要なのは、協定を「結ぶだけ」で終わらせないことです。地域住民への周知(「このホテルは災害時に給水所になります」という情報の共有)、協定内容の定期的な見直し、訓練の実施——ソフト面の整備が、協定を機能させる条件です。
「フェーズフリー」という考え方があります。平時と有事の区別なく機能する設備・仕組みのことです。日常的に深井戸を使い続けている銭湯やホテルは、まさにフェーズフリーなインフラです。大都市の防災計画は、新しいものを作ることより、すでにある民間の生きたインフラをどう活かすかに、発想を転換すべき時期に来ています。
防災マップの井戸マークを数えることよりも、地域の銭湯やホテルと一杯の対話をすることが、今日の防災担当者にとって最も実効性の高い一手かもしれません。
