「あの木の間に管が埋まっている」という情報をどう残すか。AIによる「あいまいな情報」の資産化

目次

1. 東京都ですら頭を抱える「技術継承」の限界

以前、東京都の水道研修を受講する機会があった。

その場で印象的だったのは、職員の方が技術継承の問題を自ら語り、強い問題意識を持って取り組んでいると話していたことだ。日本最大級の水道システムを抱える東京都でさえ、この課題は深刻なテーマとして現場に横たわっている。

失われていくのは、図面や台帳に載っていない情報だ。

「あの二本の木の間に管が通っている」「このバルブは少し固いから、左に半回転してから右に回す」――そうした言葉は、ベテラン職員の頭の中にある。長年の経験が積み重なった「現場の勘」であり、数値やデータには置き換えられない知識だ。

デジタル化が進んでも、この種の情報は記録からこぼれ落ちる。水質・水量などもともとデジタル化され整理されたデータはシステムへの蓄積が容易だ。しかし「現場のクセ」や「埋設物の微細な位置関係」のようなあいまいな情報は、どのシステムにも入力欄がない。ベテランが退職した翌日から、その知識は静かに消えていく。


2. 正攻法(図面化)の限界と「ありのまま記録」の価値

従来、こうした情報を残す正攻法は一つだった。

「あの二本の木の間に管が通っている」というケースなら、試掘して、測量して、図面に落とす。

確かにそれが最も正確だ。しかし現実には、一か所の埋設物を正確に図面化するだけで、多大な工数と費用がかかる。人手不足が深刻化している今の現場で、すべての「あいまいな情報」を正攻法で処理しきる時間は残されていない。

ここで発想を転換する必要がある。

「完璧な図面を作ってから記録する」のではなく、「まず現場の情報をそのまま残す」という順序だ。

スマートフォンで現場を撮影する。その場でベテランが音声で解説を加える。走り書きのメモを写真に添える。精度は問わない。まず「ヒント」として残すことを優先する。

AIは、そうした荒削りな情報を受け取ることができる。写真も、音声も、手書きのメモも、デジタルデータとして取り込み、処理の対象にできる。「完璧でなければ記録できない」という呪縛を、AIは解いてくれる。


3. AIによる「あいまい情報の構造化」

AIが変えるのは、記録の「入口」だけではない。残した情報の「使い勝手」も根本から変わる。

現場写真の上にテキストを重ね、ベテランが音声でその背景を語る。AIはその音声を文字に変換し、写真の内容と紐付けて蓄積する。後日、若手職員が「あの交差点付近の配管」と検索すると、当時のベテランの生の声と現場写真が即座にヒットする。

これは単なる検索の話ではない。現場に行ったことのない職員が、経験者の視点を「追体験」できる仕組みだ。

さらに重要なのが、情報の「熟成」という概念だ。

最初はあいまいなまま残されたデータも、後の工事で試掘した結果や、別の職員が追加した情報と組み合わさることで、徐々に精度が上がっていく。不完全な情報の断片が積み重なり、やがて地域全体の「デジタルツイン」へと育っていく。完成形を最初から目指すのではなく、育てていく発想だ。


4. 人口減少時代、私たちは「完璧」を諦め「共有」を急ぐべきだ

水道現場の人手不足は、今後さらに加速する。

定年退職するベテランの数に対し、後継者の数が追いつかない。その現実の中で、「すべての情報を完璧な形で図面化してから引き継ぐ」という理想を追い続けることは、実質的に「何も残さない」ことと同じになりかねない。

意識を変える必要がある。

「正解を記録する」から、「ヒントを大量に残す」へ。この転換は、完璧主義の放棄ではない。限られた時間とリソースの中で、未来の技術者が少しでも手がかりを持てるようにするための、現実的な戦略だ。

あいまいでもいい。断片でもいい。まず残す。それが今、現場に求められている行動だ。


5. 未来の技術者のために、今できること

水道の技術継承を支援する専門的なAIサービスは、今まさに発展の途上にある。より精度の高い音声認識、より賢い情報の紐付け、より直感的な操作性――そうした技術の進化を待つことも必要だ。

しかし、ツールの進化を待ちながら、私たちが今すぐ始められることがある。

「記録の残し方」そのものをアップデートすることだ。完璧な図面がなくても、現場写真一枚とベテランの一言音声があれば、それは「何もない」よりはるかに価値がある。その一枚、その一言を残す習慣を、今日の現場から始めることができる。

水未来研究所は、技術の継承を「特別なプロジェクト」ではなく「日常の習慣」に変えていくための考え方と実践を、これからも発信し続けていく。

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