1. 膜処理普及の原点――「対クリプトスポリジウム」の決戦兵器
1996年、埼玉県越生町で4,000人以上が集団感染した水系感染症の事例は、日本の水道行政に大きな衝撃を与えました。原因は、塩素消毒が効かない原虫「クリプトスポリジウム」でした。通常の浄水処理を通り抜けた原虫が水道水に混入し、広範な健康被害をもたらした。それまで「塩素を入れれば大丈夫」という前提のもとに設計されてきた水道の安全神話が崩れた瞬間でした。
この事態への技術的な対応策として、当時いくつかの選択肢が提示されました。膜ろ過による物理的除去、紫外線照射による不活化、急速ろ過における凝集剤(PAC)の強制注入徹底、そして緩速ろ過による生物・物理ろ過の活用——これらが主要な方策として議論されました。
この中で特に行政と現場の技術者の心を掴んだのが、膜ろ過でした。理由は明快です。孔径0.1マイクロメートル以下の精密ろ過膜は、クリプトスポリジウムのオーシスト(約4〜6マイクロメートル)を物理的に通さない。原水の水質に関わらず、設置したその日から「濁度ゼロ」を担保できる。この圧倒的な確実性が、多くの自治体を膜ろ過の採用に向かわせました。
2. 私たちの生活に浸透した「膜」の多様性
膜技術は今や、水処理のあらゆる分野に浸透しています。
下水処理の分野では、MBR(膜分離活性汚泥法)として、生物処理と膜分離を一体化することで、従来の沈殿池を不要にした高効率な処理システムが普及しています。家庭では、蛇口直結型の浄水器の多くが逆浸透膜(RO膜)や精密ろ過膜を採用しています。登山者や災害時の携帯浄水器にも膜が使われており、野外でも安全な水を確保できるようになりました。水資源の乏しい中東やシンガポールでは、海水淡水化プラントの中核技術として、RO膜が国家の水安全保障を担っています。
水道用の膜モジュールは、工業製品としての品質管理が高度に確立されています。製造ロットごとの品質検査、孔径の均一性管理、耐薬品性・耐圧性の試験——こうした厳格な品質管理のもとで製造された水道用膜は、確かに「最強の盾」と呼ぶに値します。水質事故リスクを最小化するという目的において、膜ろ過の信頼性は疑いようがありません。
私自身、膜ろ過設備が導入された現場での経験があります。原水の濁度が高い日でも、処理水質が安定しているという事実は、技術者として純粋に感動を覚えるものでした。
3. 現場を苦しめる「運用」のリアル
しかし、技術的な優秀さと、現場での持続的な運用は別の話です。
頻繁な逆洗の負担
膜ろ過設備では、膜面に堆積するファウリング(目詰まり)を防ぐために、定期的な逆洗が不可欠です。多くの設備では最低30分に1回程度のサイクルで自動逆洗が行われます。この逆洗には、処理した水の一部を膜の内側から外側に流して汚れを洗い流すという方法が採られるため、造水量の一部が「捨てられる」ことになります。回収率の低下は、そのまま水のロスとなり、原水の取水量を増やす必要が生じます。また逆洗のためのポンプ駆動電力が、継続的な運転コストとして加算されます。
薬品洗浄の複雑さ
定期的な薬品洗浄も必要です。逆洗だけでは取り除けない有機物や無機物のスケールを溶かし出すために、アルカリ洗浄(次亜塩素酸ナトリウムなど)と酸洗浄(クエン酸や塩酸など)を使い分けながら実施します。
この操作の複雑さが問題です。専門の管理員が常駐する大規模施設であれば問題ありませんが、地元の住民が交代で管理する集落の簡易水道では、薬品の種類・濃度・洗浄時間・廃液処理の一連の手順を正確に実施し続けることは、現実的に難しい。操作ミスによる膜の劣化、あるいは薬品の誤取り扱いによる事故リスクも、無視できません。
「大きく、重い」交換作業
膜モジュールの定期交換が必要になったとき、その作業を誰が担うかという問題があります。膜モジュールは、製品にもよりますが十数キログラムから数十キログラムの重さを持ちます。設備の構造上、狭い空間での作業が必要なことも多い。
集落の水道管理者が高齢の住民主体である現場では、専門業者への委託が必須になります。それは追加のコストを意味し、「呼んだときにすぐ来てくれる業者が地域にいるか」という問題にも直結します。山間部や離島では、業者の手配そのものが課題になるケースがあります。
4. 避けて通れない「1,000万円」と「30年後」の試算
膜ろ過設備の導入には、相応の初期投資が必要です。
膜本体の費用に加え、供給ポンプ、逆洗ポンプ、薬品注入装置、監視・制御盤——これらを一体で整備する必要があります。小規模水道向けの最小単位の設備でも、1,000万円クラスの初期投資は覚悟しなければなりません。規模が少し大きくなれば、数千万円に達することも珍しくありません。
しかしより深刻なのは、その後に続くランニングコストと更新コストです。
膜モジュールの交換周期は使用条件によって異なりますが、おおむね5〜10年を目安に交換が推奨されます。交換費用は設備規模にもよりますが、百万円単位に達する可能性があります。制御盤や駆動系設備は、電子部品の陳腐化も含め15〜20年での更新が現実的です。施設全体としての大規模更新は、30年前後で発生します。
人口100人以下の集落において、この費用を誰が負担するのでしょうか。
人口が減れば、水道料金収入は減ります。高齢化が進めば、一人ひとりの負担増への抵抗感は高まります。30年後の施設全面更新費用を、今の住民数が半分以下になった将来の世代が担えるでしょうか。広域化の議論が進んでいるとはいえ、統合されるまでの数十年間、この設備を維持し続けることができるでしょうか。
設備の性能は優れています。
しかし「持続できるか」という問いに、膜ろ過は必ずしも肯定的な答えを返してくれません。
5. 信頼性と持続性のバランスを求めて
膜ろ過の確実性を、私は経験したからこそ認識しています。
あの絶対的な水質安定性は、他の技術では代えがたいものがあります。
しかし、技術は「持続可能」であって初めて価値を持ちます。10年後に修理業者が来られなくなった、20年後に膜の交換費用が用意できなくなった、30年後の更新費用が誰にも負担できなくなった——その瞬間に水が止まるとすれば、それは「信頼できる水道」とは言えません。
小規模水道の未来を設計するとき、「最も性能が高い技術」と「この地域で最も長く使い続けられる技術」は、必ずしも一致しません。
膜ろ過が輝く場所は確かにあります。原水の水質変動が激しく、安定した処理水質が絶対条件の場所、専門技術者が常駐できる規模の施設、交換部品の調達と技術支援が継続的に確保できる環境——これらが揃うなら、膜ろ過は最善の選択肢の一つです。
しかし高齢化が進む山間部の集落、担い手が地元の住民のみで予算も限られた簡易水道、30年後の姿が見えない地域——こうした条件下では、「壊れにくく、直せて、更新費用が小さい」技術の選択が、結果として最も多くの住民を長く守ることになります。
技術の優劣を一律に語ることはできません。その地域の条件、その組織の能力、その予算の現実——すべてを踏まえた上で「最適な技術」を選ぶことが、設計者の責任です。
水未来研究所では、膜ろ過を含む複数の浄水技術の中から、その地域の実情に最も合った選択肢を提案するコンサルティングを行っています。「本当にこれが最善か」という問いから始めることを、恐れないでください。
